山の水源確保

前記事を書きながら思い出していたのだけれど、自分が生まれてから高校の寮に入るまでの間に住んでいた家では、公共の水道は引かずに山水で生活のすべての水を賄っていた。

山水

小さな盆地の町外れの山際で生まれて育ったのだけれど、両親の結婚を機に父の実家が所有していた山林を譲り受けて斜面を造成した土地に家が建っていた。

切り土した土手からは水がポタポタと浸み出している様な部分があって、後年にはその水を利用して池を作ったりもしていたのだけれど、生活で使用していた水の水源はまた別で、家から100mほど山側に登った谷筋に面した急斜面に水源の集水マスがあった。

家を建てる際、その土地の所有者が「あの辺りは多分水が出るからそれを使うといい」と言って使わせてくれていたのらしいが、家の裏の土手と同様であからさまに流れるほどの水が湧き出ているのではなくて、せいぜいでポタポタと水が滴る程度だったのではないかと思う。

その作業をした頃は自分はまだ生まれていないので詳しくはわからないのだけど、その辺りを掘って太めの塩ビ管にドリルで穴を無数に開けた暗渠を埋めて集水し、出口にコンクリートのマス(水槽)を作って水を貯めて、その上部に開けた出口からホースで家まで水を送っているという様な構造になっていたのだと思う。

ちなみにその集水マスから2〜3m下には小さな沢が流れていたので、冬場の湧き水が少ない時期などにはその沢から水を引けば良いのにと子供ながらに思ったこともあったのだけれど、そのあたりは長年の田舎の知恵みたいな理由があるのかもしれない。

冬場は水量が少なくて風呂にお湯を張るのに時間がかかったりとか、大雨が降ると水が濁ったりとか、定期的に集水マスの掃除をしなければならなかったりなどの不便な面もあったのだけれど、家の中も外もいつも蛇口からは水が流れっぱなしで、その水で冷やしたトマトやキュウリ、ヤカンの麦茶の旨さは忘れたくても忘れられないし、何より、この歳になるまで色々な場所で水を飲んだけれど、この子供の頃の家の水より美味しい水とは未だ出会ったためしがない。

今ふと思ったが、自分は何だかんだ「山」が好きなのは、山からこの水をもらっていたからかもしれない。そういえば、それと同じ様な意味で、この水に因んで忘れ難い思い出があって、少々脱線するけれど良い機会なので以下はその話を書いておくことにする。

この家は15年ほど前に取り壊して県をまたいで現在の自宅に家族ごと引っ越してきたのだけれど、引越しが決まってこの水源の地権者のお婆さんに挨拶に行った際にその方が言われた言葉がなかなかに得難いものだった。

その頃には既に亡くなっていたお爺さんと共に、戦時中だか終戦後に全くの山林だった場所を切り拓いて田んぼや畑を作り、牛や鶏を飼って家を建てて子供を育てて(…その息子さんは高校の先生になった様な人だったが、退職後にはお爺さんの後を継いでそこで自然農をやっていた…)という苦労人のこのお婆さんがそんな話をしてくれた後で、自分はその一軒家の周りを見渡しながらその様子に感嘆の言葉を言ったのだけれど、自分たちが苦労して切り拓いたその同じ景色を見ながらお婆さんが最後ににボソっと言ってくれた言葉は意外にも「人間って、酷いことするなぁ」というものだった。

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