現代の自給自足における肉食についての個人的な考察(犬目線)

狩猟採取や狩猟民族などという言葉があるのでそれが当然の共通認識となってしまったのかも知れないが、生物学的な意味での長い歴史において、肉食という行為は人類にとってそれほど妥当なものだったろうか?という素朴な疑問が、もう長い間なかなか払拭出来ずにいる。

たしかに、貝塚からは貝殻に混じって様々な動物の骨が出土するらしいし、人間の胃袋は穀類よりも早く肉を消化するなどということも聞いた覚えがある。また穿った見方をすれば、有史以来明治維新までのこの国における肉食の禁忌は、為政者が統治の手段として農耕を土台とする社会制度の基盤を徹底させるため、土着の穢れの思想と輸入した儒仏の思想を混淆させてそれを強調したのであって、人間の本来の欲求を抑制したものだったという解釈も成り立つかもしれない。

が、しかし、犬たちと暮らしていていろいろと思うこともある。

犬の歴史はその起源から人間と共にある。つまり、もともと野生のオオカミだかヤマイヌだかを人間が飼い慣らしたものが犬と呼ばれる様になった。これは多分日本だけではなく地球上のあちこちでそんなことが行われたと想像する。

冗談ぽいが、分類上はイヌはネコ目というカテゴリーに属する。ネコ目というのはいわゆる食肉目を指すカテゴリーで、肉を裂くための裂肉歯を持つグループの分類である。

1つ目の疑問はこれである。人間は種として肉を食べる様には構造的に進化してきていない。犬たちはもちろん肉を生でも食べるし、人間が食べるにはあきらかに"賞味期限が切れた"肉を食べても、別段腹の調子を悪くしたりすることもない。肉を食べるための機能が有意に発達していない人間にとって、ナイフやフォークや包丁やフライパンや鍋、調味料、ガスコンロ、冷蔵庫などが無かった時代、タンパク源を得る為にわざわざ"狩猟"してまで肉を食べることは、あまりに非効率的では無かっただろうかと想像するのである。

次の疑問は"狩猟"についてである。ネコ目の鋭い歯は、特化した身体能力とも併せてそれがそのまま狩猟の手段にもなる。繰り返しになるが、人間はそれらを持っていない。

ウチの犬たちは「良い日本犬を作出する」ために犬舎で繁殖され、その基準を満たさなかったダメ犬チームなのだが、散歩以外は狭い個別の檻の中で過ごし、また、どこへでも「出せる」様に敢えて飼い主に馴らさない様にして何年も育てられていたので、連れて来た当初は事ある毎によく咬まれた。

犬にしてみれば、警告程度の明らかに手加減した咬み方をしているのだが、いちばん最初に咬まれた時に念のため病院で診てもらって3針縫った。その後はこちらも警戒はしているのだけど、それ以上の動きの素早さと見た目以上に切れ味の鋭い牙のおかげで、何度もそれを繰り返した。(2回目以降の傷の手当はマキロンと絆創膏になった。)

犬の裂肉歯

犬(ネコ目)の歯。意外に鋭い。ちなみにこの犬は、この牙(犬歯)と奥歯(裂肉歯)の間にあるはずの歯が一本足りないという理由で「良い柴犬」ではないのだそうだ。それが理由でウチに来たので結果オーライ。

人間が野生のオオカミを手馴づけて犬にしたなどとまことしやかに言うのだけれど、天然記念物にまで指定して組織的に長期に亘って手厚く手馴づけられた柴犬のうち、咬んだ犬の父親は品評会では最高位の総理大臣賞を受賞した、そういう意味では審査員たちのお眼鏡にかなう「血筋の良い」犬にもかかわらず、彼らは人間との意思の疎通が意味を無くした瞬間にいつでも野生に還る心算があるらしい。

最後の疑問はその辺りにある。これはいささか、自分の主観と想像の範囲を超えるものではない事柄かもしれない。

例えばこの人間と犬の馴れ初めを考えてみても、双方にとっての利害が一致するなどという教科書に書いてある様な無機質な言葉では説明仕切れない部分を含んでいると思うのである。

犬の起源の具体的な年代は諸説ある様だが、現生人類が繁栄を始めた頃にはすでに犬の痕跡を確認することが可能な様である。当時は「霊長類」とか「絆」などという言葉も無かったであろうし、農耕=定住の以前は長きにわたって「所有」という概念も限りなく希薄なものであったろうから、その関係は現代的なそれよりも対等で緩い関係だったのではないかと想像する。しかしそこにはそれを繋ぐだけの何らかの力学が作用したはずで、その関係から得られる利害関係などというものは、その結果に付随するに過ぎないのではなかろうか。首に縄をかけておいて「お手」とか「待て」と言って犬を人間に服従させるという様な主従関係は、主も従もその動機が希薄であるから成り立たない。

パートナーシップを結ぶかどうかは別として、それは他の動物との関係についても同じことが言えるのではないかと想像する。野生の動物と人間との間は境界であり接点であるのだが、敵対するもの同士の境界線的な発想は人間の社会がある程度成熟してから発生した概念である。主従関係や搾取も然り。自然な状態の人間が一方的な都合で、それもわざわざ多大な労力と生命的なリスクを取ってまで動物を屠ることがあったとは、自分にはなかなか想像し難い。

犬たちを連れてこの辺りの山の中を散歩していると、野生の動物にバッタリ出会うことがたまにある。その瞬間は直感的に、特に大型の動物にはなんとも言えない畏敬の念とでもいう様な印象を受ける。

思うに狩猟と肉食は、現生人類の勢力が広がってある程度の基本的な社会構造が出来上がり、人口的にもある程度まとまった単位になった辺りで、必要に迫られ、また、それが可能になった背景の上に初めて成り立ったのではなかろうか。人類の長い歴史においては時期的にそれほど古いものであるとは言い難く、最終氷期と絡むかもしれないことは見逃せないし、逆にその目的故に社会集団を形成する起点となった可能性があったとしたら、氷期が終わって本格的な農耕を始めなければならない原因ですらあったかもしれない。論考が少々飛躍しすぎた感はあるが、人類の発展という名の不幸の始まりに密接に関係している疑いは濃厚である。

明治の開国以降、欧米人の習慣に倣って日本人は誰の目を憚ることなく当たり前に肉を食べる様になった。しかし実はつい50年ほど前の1960年頃までは、日本人の食肉の消費量というのはたかが知れていた。

今でこそ、そこかしこにあるコンビニのレジの横にすら、決まった形に加工された様々な種類の大量の肉類が安い値段で毎日どの時間に行っても並んでいて、いつでもどこででもそれを買って食べることができる。

昨今、オフグリッドでの自給自足や小屋暮らしに脚光が当たる様になり、自分もこんな生活をしているくらいで基本的に嫌いではないので、その様な人のブログなどを見る機会もあるのだけれど、なぜかそうした人の中で狩猟免許を取ってまで肉を食べたがっている様子を少なからず見かける様になった。

この辺りの山沿いの集落には林業の関係者もそこそこいる。柳田國男が書くのをやめた山人の系譜、つまり、まつろわぬ者の系譜として、以前から自分は心情的に何となく親近感があったのだけど、実際に接してみるとこの様な人たちは猟友会と関係している場合が多い。スポットで林業の手伝いをした時も、山にある物を人間はいかに有効に利用すべきかという様な発想がほとんどで、自分の思い描いていた像が見当違いだったことを認識させられた。(5/15 追記:つまり、自分(たち)にとって利益として換算できるものが「山の豊かさ」「自然の豊かさ」なのだと。)

で、結論としては、自給自足のその理念がただ単に利己主義や人間至上主義に根ざしているだけのものならば、それはすでに用意された上記のコンビニ的な価値観を単に置き換えただけのものに過ぎない。工程が複雑に分化して実感し辛くなった因果を直接的に体験できるというメリットはあるのかもしれないが、その因果に対する応報もまた直接的に体感しながら業を背負うという、自給自足というよりは、自業自得というべき種類の事柄なのではないかと思うのである。

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