人体のレシピとしてのタンパク質と、腸内細菌とか肉食とか

この犬小屋暮らしを始めて2年足らず、炭素循環農法について調べ始めてからまだ1年半ほどしか経っていないのだけれど、”現在の文明社会から文明を差し引いたときに残る基本的な人間の営み”みたいなところには以前から興味があって、これは多分学生時代から荘子などが好きだったのでどちらかといえば自分の気質の様なものなのかもしれないが、経済最優先の新自由主義が世界中で拡大・蔓延していくのと比例してその興味はさらに深まっている気もする。

若い頃からそんなふうなので関連する記述などは頭の片隅に留まっていたりするのだけど、30年ほど前に書かれた人体スペシャルレポート―新発見!珍発見!!大発見!!! (ブルーバックス)という本の中に「パプア・ニューギニア人の”腸”能力」という項目があって、筋骨逞しいパプア高地人はイモばかり食べているのにどこからそのタンパク質を得ているのだろうかという疑問に対して、それは腸内の細菌叢の為せる業であるという様な、量的には10ページ余りの記述がとても印象に残っている。

前記事でも少し触れた、最近の言葉で言うところのマイクロバイオームというやつである。

土壌と人体のマイクロバイオームは繋がっていないと考える方が不自然じゃないかな
1年ほど前に水上勉の「土を喰う日々」を読んで、何となく精進料理というものに興味を持った。この本はアイヌ人が珪藻土を食べた様な意味で土を食べる...
この本によれば、パプア高地人の腸内細菌叢はどちらかといえば牛に近いらしいのだが、考えてもみれば、肉肉といって人間に寄って集って食べられる牛は肉なんか食べていないわけで。人間がその機能を持ち合わせていないのが不思議である。

肉=牛か?

人間の体を構成するのは、60〜70%を占める水分を差し引くとその約半分はタンパク質である。細胞はタンパク質で出来ているし骨もその骨格自体はタンパク質である。エネルギーや伝達等の流動的な部分を差し引くと、人体のハードウェア的な部分はほぼタンパク質と考えても良いのではないだろうか。一方で、地球の大気の約8割は窒素である。これだけの需要とその供給の体制が整っているにも関わらず、人間は働いて給料をもらって屠った他の動物の肉を買って食べなければならないらしい。

すこし前に書いた記事でも少し触れているのだけれど、”現在の文明社会から文明を差し引いたときに残る基本的な人間の営み”の中に肉食が含まれるのかという疑問を自分が拭いきれない理由は、この経済主義的な理由に端を発しているのかもしれない。
https://junk-style.org/self-sufficiency-and-meat-eating/

現代文明を差し引くという意味で、明治維新直後に書かれた外国人による日本の観察記の様なものを何冊か読んだことがある。その中で、日本には肥満が無いことや、握り飯と漬け物くらいで一日中駆け足で人力車を牽く車夫のスタミナへの驚嘆などの記述が記憶に残っているのだが、これは上述したパプア高地人の記述と通底するものがあるのではなかろうかと思う。出典は覚えていないのでまた後日機会があれば引用して修正したいのだけれど、この車夫のストーリーには続きがあって、こんなにスタミナがあるのならば西洋風の肉食をさせれば更にパワーアップするのではないかとその様な食事を支給して実験したのだが、意外にも肉食をした途端にスタミナ切れを起こして元の食事に戻してくれと哀願されたなどということが書かれていた。

また、日本文学の中にも、たとえば島崎藤村の夜明け前などは維新前後を客観的に考証しながら書かれた良書だと思うのだが、当時の日本人の徒歩での行動範囲の広さやその頻度、また、食肉文化が入ってきた現場の生々しい記述などもあって考えさせられる部分が多い。ちなみにこの本は、明治維新の更に前の時代に於いてさえ、既に渡来の思想や習慣に感化された日本人の姿を憂いた宣長や篤胤に傾倒する主人公の姿を描いているあたり、明治維新によって急速に欧米主導のグローバルスタンダードに乗っかった現代人が、それと引き換えにしたものを暗に示唆しながら書かれている様な節も感じることのできる良書であると思う。

人間がもし、豆類の根の根粒菌や牛の胃の共生菌の様な窒素固定能力を携えていれば、世界は平和だったかもしれない。甚だ疑わしくはあるけれど。