山と人とのかかわり

この連休中は山の事故が相次いだという報道を目にしていたが、近頃はとんとご無沙汰しているFBのウォールを遡って眺めていたら、知人が下記のブログ記事を引用しているのが目に入った。

http://bochiiko8.blog.fc2.com/blog-entry-448.html

自分は小学1年生の頃から山好きだった父に連れられて毎年登山をしていた。上記の穂高山荘には4年生の時に泊まったことがあって、ジャンダルムを仰ぎながら白出沢の雪渓を1歩ずつ慎重に踏んだ記憶がある。また、そんな父が本棚に並べていた山岳小説はあらかた読んだし、自分でも図書館で山岳や冒険の本を借りて読む様になったりもした。そういえば勉強机の上には朝日に輝くジャンダルムのポスターが貼ってあったのを今思い出した。

そんなことがあって上記のブログの内容は何となくではあるがその情景を想像できるのだけど、当初報道を聞いて自分が想像したところとそれほどかけ離れたものではなかったし、荒れ気味のコメント欄も何となく予想した流れではあって、それについてとりたててモノ申すということではないのだけれど、何となく心に引っかかるものがある。

これは多分、山とか小屋とかで暮らすことの動機として感じていることとも関係していそうなのだけれど、自分はそこに、唯物的な意味での娯楽や嗜好や思想などを超えたものを見出したいのだろうと予想する。そしてこれは、つまりは少年時代の自分がそこに魅せられた理由でもあるのだと思った。

自分はかつて、自分の死に方を大まじめに考えたことがあって、その時の結論は”土に還る”ということになった。実はこれがなかなか大変なのだけれど、その方法も考えた。そして今も、その性急さこそ希薄になっているものの、緩やかにではあるがそこに向かっているという自覚を持っている。

これはたまたま最近久しぶりに会って歯医者のことなどを話した人が言ったことなのだけど、断食のメリットについて話してくれている中で、体調や精神が整って活性化するなどいろいろあるが、特筆すべきは「いつでも死ねる」と分かることだという様なことを話してくれて、自分の上の様な経験で感じたことと符合して妙に納得できたということがあった。

で、その様な観点から「生」や「死」を見たときに、自分の場合にはどうしても唯物的な事柄の中に収まりきらない部分があって、その部分こそが結局最後まで残る部分なのだけれど、多分これは原始的なアニミズムなどと共通する部分でもあるのではないかと思っている。

畏敬とか神々しさという様な感覚はニーチェが”神を殺す”よりもずっと以前から希薄になっていて、その一端は”神”が定義された宗教の始まりまで遡らなければならない。また、たとえばバークの”崇高”は神を差し引いてそれを再定義したものであるが、その指し示す範囲はあまりに狭いところに限定されたという印象が拭えない。

まぁ、くだらない小難しい話をしてもどうしようもないのだけれど、この犬小屋生活を始めてから朝は日が昇る少し前に目が覚めて、ポーチでタバコを吸いコーヒーを飲みながら太陽が昇るのを待つ様な時間を持てる様になった。

東側は市街地を含む平野越しにかつて山岳信仰の対象となった山脈を望む様な立地なので、晴れた朝にはその山から日が昇る。そんなシーンをたくさん見ているはずなのだけれど、その朝毎に神々しさともいう様なものを感じる。

神々しい日の出

かつては信仰の対象でもあった山岳の見方にシンパシーを感じつつ言えば、その目線からは「そこに山があるから」登るという近代以降に使い古された言葉の持つ”人間の不敵さ”は、すでにその様な概念すら忘れ去られて久しいというのが自分の今回の印象で、しかしながら自分の人生のモチベーションの中には確かにその様なことが存在しているという事もまた再認識する機会となった様に思う。

蛇足かもしれないが犬小屋暮らしのブログなのでそれらしいことを付け加えると、犬たちもこの山から太陽の昇る様子をじっと見つめていることが多い。

そんな光景を見ていると、新鮮な朝日を受けて金色に縁取りされた犬たちの姿がまた何とも神々しいのである。

日の出を見る犬

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