リュック・ベッソン「グランブルー」のジャック・マイヨールと「スペース・オディティ」のトム少佐との類似性を書いている人がいないかと何度検索しても出てこないので今日はこんなタイトルにしたのだけれど、この深遠なテーマに対して駄文を並べるつもりは毛頭ない。
デヴィッド・ボウイのTシャツ その後
先日届いたデヴィッド・ボウイのTシャツを相方に手渡したら2〜3日前に相方の姪からお礼の電話をもらったり、それもあって前の記事を読み直したりしているうちにまた自分の中でプチ・デヴィッド・ボウイ週間が始まってしまった様だ。
Tシャツは、ボウイの最後のアルバムとなったBlackstarのジャケットと同じデザインのシンプルなものである。
アルバムのタイトルにもなっているBlackstarのプロモーションビデオには、トム少佐の残骸も出てきたりその曲調も相まって、半世紀にわたった壮大なスペースオペラのエンディングの様相を呈する。
ジャケットの、大きなBlackstarの下に散らばったスターダストたちは「B O VV I E」つまり彼自身を表したものらしい。彼のこんな確信犯的な死に様をTony ViscontiはFBの投稿で ” His death was no different from his life – a work of Art. ” と書いた。まったくその通りである。死に様は生き様である。そして彼の場合には、それは秀逸なひとつの作品である。
https://www.facebook.com/tony.visconti1/posts/10208522003550232この記事の表題を「トム少佐とマイヨール」にしなかったのは、そこから影響を受けた人たちも含めてそのムーブメントを捉えたかった側面があるのだけれど、禅や武士道の死生観と美意識があったはずの日本において、しかしながらそれらはその様な捉えられ方をされているのだろうか?という懐疑的な提議も若干含んでいる。絵的な美しさやディテールの蘊蓄は当然その後にあるものであって前には無い。
ジェルソミーナと杉戸八重とソーニャ
冒頭に戻って、フェリーニ「道」のジェルソミーナと水上勉「飢餓海峡」の杉戸八重、あるいはドストエフスキー「罪と罰」のソーニャとの類似性なんていうのも出てこない。
分かっている答えを探して検索する人もいないのかもしれないが、答えを探すだけが検索ではないとも思う。利便性や収益性に収束していく検索エンジンと書き手を含むその利用者の進化の方向には抗えないが、いつか、こんなキーワードで検索してる人を発見したら何となく嬉しいのでネット上に置いておく、という意味の本日の記事。ちなみに、相方とはデヴィッド・ボウイも含めてこの辺の感覚がピタリとハマる。いや、寧ろ自分の方が影響を受けている部分が多いのかもしれない。飢餓海峡は相方に教えてもらったし、ドストエフスキーは自分より多く読んでいる。
同様の感覚を確認したいというのも承認欲求のひとつの現れなのかもしれないのだけれど、自分が見知らぬ人にシャツを贈ろうと思った様に、誰かがニヤッとしてくれたら良いのだけれど。

4年前に「飢餓海峡」所縁の地を巡って、仏ヶ浦界隈の山中で撮った写真