土の人、風の人

4年ほど前に東北を縦断して北海道まで車で旅行したことがあって、その途中、秋田の道の駅の裏の公園にあった壁画(?)に印象深い言葉が書いてあった。

風の人、土の人

自分の中で東北は、前出の遠野物語のイメージとか「野生の思考」のレヴィ・ストロースがペシミズム丸出しで書いた「悲しき熱帯」のイメージと重なるのだけれど、そんな先入観があったところに見かけたこの言葉には何とも言えないものを感じた。これは東日本大震災と原発事故の翌年のことであったので尚更そう感じたというのもある。

「悲しき熱帯」の「悲しさ」の一端を表すのではないかと思うのだけれど、下記のページの一番下のグラフは、南米各国の人口に占める先住民の割合を示すものであるらしい。

http://www.notimerica.com/sociedad/noticia-quinta-parte-indigenas-latinoamerica-mantienen-ocultos-20151004220743.html

南米では先住民と入植者が混血して社会の複雑な階層をなしているのだそうなのだけど、ハプログループを調べると父系を示すY染色体と母系のミトコンドリアでは分布の仕方が異なるのらしい。即ち、母系では先住民の比率が高いのに対して父系はその逆となる。そしてこれは日本国内でも、縄文型と弥生型といった分け方をすると東西の両端とか僻地に於いて同様の分布を示すのだそうである。

「風の人」を一概に”コンキスタドール”(征服者)とするのは語弊があるということは承知している。自分には人間の原始的な社会の最小単位は現在の様な「家族」ではなくて、クジラや象の群れと同様に母系の血縁集団だったと見たいという願望があって、その意味ではメス(女)は「土の人」、オス(男)は皆この「風の人」の定義に当てはめて考えることができると思っている。ので、寧ろこれは種の中の多様性を維持しリスクを分散させる意味では本来あるべき姿に近いものとすら考えている。

ただ、これを男系(父系)に置き換えると途端に不幸が始まって、侵略だの保守だのムラ社会だのの概念がワラワラと湧いてくる。逆に言えば、自分の中では「家族」と「冷蔵庫」の間にその差はあまり感じ無い。

今日(もう昨日か)は天気が良くて少し早くに床に就いたらすぐに目が覚めて寝付けずにブログを書き始めたのだけど、余所者が町内会に参加するための心構えみたいなことを書こうと思って書き始めた筈が、方向感無く逆走しそうなのでやっぱり止めておくことにする。

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