山暮らしのリテラシー

昨年だったか、犬たちが吠えるので何かと思って外に出ると、ワンボックスカーに竹細工などを満載して売り回っている人が柵の入り口に立って「何か要らんか」と声をかけてきた。

そのちょっと前にもフレッツ光のどうたらこうたらという勧誘があったばかりでそっちの方は「パソコンも無いし」と無碍に断っていたのだけれど、竹細工の方は食指が動いてしばらく話をしながら結局ザルを1つ買うことにした。

竹細工のザル

柳田國男が遠野物語の序文で「平地人を戦慄せしめよ」という壮大なボールを投げつつその後書くのをやめた、まつろわぬものの系譜である「山人」には以前から興味津々で、その大きな穴を埋めるために宮本常一や喜田定吉や網野善彦などを読むのだけれど、そんな流れの中でこの「竹細工師」と束の間のやり取りができたことは自分にとってはなかなかにエキサイティングな出来事だった。(参照:wiki

「まつろわぬ」とは「まつらう」つまり「まつる」事をしないということだが、「まつる」とは「纏る」であり「奉る」であり「政る」であり「祭る」である。白川静によればそれは「待つる」でもあるらしい。ごもっともである。

これはどこかで読んだのか、自分がごちゃごちゃと頭の中で弄くり回したのか忘れたが、素人と玄人という語についての印象がある。曰く、これは多分もともとは白人と黒人で、白人は柳田の言う平地人を表し、黒人は山人などまつろわぬものを表す。上記の竹細工や木地師、また、喜田による飛騨の匠の記述などもあるが、黒人は定住耕作による自給の代わりに職人的な技術職を生業とする例が多い。ただ、時系列的には白人の方が”新人類”の筈で「野生の思考」でいうところの”ブリコラージュ”が先にありきなのであって、つまり、大昔は皆、家を建てるのに大工は必要なかったはずである。そして自分が思うこのブリコラージュのイメージは、素人が家を作るのではなく皆が玄人であるということ。(5/12 追記:たとえば、鳥が巣を作る様な意味で。鳥の巣をマジマジと観察したことがあればこの意味が伝わるかと思う。)家を作るのは1つの例だが、これは生きること全般について言えたことであっただろう。なので、そこには強い淘汰圧が作用したと考えられるし、その中で最低限の安全保障を確保するには強い力に「服る」あるいは「順る」のが賢いやり方である。ちなみに、黒人が白人になることを”足を洗う”という。

度々登場するロシア人の知人が言うには、ロシアの男は大概のことは自分で出来るのだそうだ。車が壊れれば自分で修理するし、ダーチャの小屋もほとんどのものはセルフビルドなのだそうだ。サウナも作る。アメリカでも似た様なもので、今はどうか知らないが大きなブロックを積んでデロデロいっていた頃のアメ車なんかは、自宅のガレージでエンジンを積み降ろしするための工具なんかがその辺のホームセンターレベルで普通に売ってた雰囲気だったし、そもそもそれを見込んでか設計レベルで既に汎用性の高いものだった。今でも向こうのネットショップなどを覗くと、例えば家のリフォームで個人が注文することを前提にした商品が、ハイエースで下請け仕事に走り回ってるその辺の一人親方の大工を軽く凌ぐ様なレベルだったりして笑える。

現代版ブリコラージュの1つの目安として、車が壊れたら自分で直せるというのは、とくにオフグリッドでやってみようなどと思う際には、自己診断を含めてその人の色んな意味でのリテラシーを判断する材料にはなるかもしれないが、まぁ、余計なお世話である。

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