Bライフという選択肢

この世の中で法的、あるいは社会的に最低限の自分の居場所を確保するという様な意味で、Bライフを提唱する寝太郎さんのブログや著書は以前から興味を持って拝読している。

http://mainennetaro.blog.fc2.com

寝太郎さんの著書

自分の場合、その動機としては漠然とした反現代文明とか反社会的な理由が大きくて、「石器時代の経済学」とか「銃・病原菌・鉄」とか「パンドラの種」、あるいはせいぜいで「野生の思考」とかの延長線上にあるのだけれど、寝太郎さんの著作、とくに最新刊などを拝見する限りではご本人の動機は別のところに根ざしている様子である。ディオゲネス的な人物像を何となく勝手に想像していたので、バクーニンを期待して読んだドストエフスキーの「悪霊」を読み終わった時の様な方向の喪失感の様なものを感じたのだけれど、違うところでまた共感する部分もあったりで読み応えがあった。

Bライフという言葉の捉え方や定義付けは100人いれば100通りあって然りなのだけれど、基本に立ち還って「AではなくてB」というこの選択肢を浮き彫りにした寝太郎さんの功績は大きい。

BはBであって、A’や反Aではない。

人類の歴史を24時間に置き換えるとすると、このAなるものはたかだか数秒とか数十秒前に作られた価値観である。自分などはBライフのBをBasicのBとして捉えたくなるのだけれど、この著者などはその乖離具合をも、ともすると楽しんでいる様にさえ見受けられて、それがまたこの人が人を惹きつける魅力でもあるのだろう。

何年も前に、サガンの映画の宣伝に「自由を定義したら自由じゃない」というセリフがあった。この辺りは書き出すとキリがないのでまたおいおい記事にしていきたいと思う。

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